昨年9月、第一句集『乳歯』を発行した浜田享子さん。このインタビューのあとは、スクエアダンスの練習があるとのことで、効率よく同じ建物内でお話をお聞きしました。
Q ご趣味が多いとか
それほどでもないわ。俳句以外では、俳画、コーラス、読み聞かせ、ダンスはスクエア、社交、カントリー、それくらい(笑)。そういった芸能活動は14年前からで、俳句だけが30年ほど。今回の句集はその俳歴30年の節目に夫から「やるなら元気なうちがいい」と勧められ、思い切ってまとめました。
Q 仲良くご夫婦で来社くださいました
句集を出すなら御社がいいと知人に紹介され、どんなところで本が作られているのかとにかく見たい! と、即新潟行きを決定。夏の盛りの頃、夫と弥彦温泉に泊まり、弥彦神社に成功祈願。翌日御社にうかがい、そこで二校を済ませ、表紙のデザインをする現場に立ち会った。あれこれ思案していたところ、書名の文字を銀色の箔押しにしては? という提案があり、初めて句集『乳歯』の上梓が現実味を帯びた。9名のミューズにも会えたし、新潟に行って本当によかった。
Q 反応はありましたか
句集を出したことがこんなに様々なものを運んでくるとは思いもよらなかった。お送りした方や他結社からたくさんの温かい感想が寄せられ感動でした。新たな俳縁がとても嬉しい。
Q 俳句との出会いは
幼なじみの同級生が保険セールスをしていた私に、ある会社の重役を紹介してくれた。彼は仕事ではなく肩書のない名刺をくれ「歳時記を持ってここにいらっしゃい」と。仕方なく歳時記を買って出かけた所が、その会社の職場句会所。その時の重役さんが生涯の趣味となる俳句の先生、土生重次であった。これといった趣味が何もなくて何となく続いた気がする。
Q 何もなかった?
そこだけが自分を取り戻せる時間、心の支えだった。それ以外はすべて人のための時間。長男が幼稚園の頃から大変な病気になり、よく発作を起こしては救急車を呼んだ。小学校の時には自ら1年間転地療養をしたい、と離れて暮らすことに。四六時中頭から離れない息子。寂しさを感じなくていい時間を持ちたくて、34歳のときに保険外交員の仕事を始めた。子どももがんばっている、自分もがんばろうと、一番つらそうな仕事を選んだ。全く手をかけられなかった妹は、兄の姿を見ていたからか、東京都で初の女性救急隊員になった。
Q 大変なお仕事だったのでは?
数字が人格の世界、でも結果さえ出せば逆に自由がきくので、4時過ぎには家に帰る算段をしていた。名刺1枚で知らない人と会い、その方の生き方を学べる。28年間、本当にいい勉強をさせてもらった。楽しかったが、やめたいと思ったことは何度も。でも、やめたらそれまでの努力が無になる。働いて数字を出せばそれなりのお給料がもらえ、こんな確かなものはない。そのための我慢と工夫を重ねた。老婆は一日にしてならずよ(笑)。何を置いても一番大変だったのは息子の闘病、それに比べたら―。
Q そんなに大変だったのですね
息子が20代のころピースボート(世界一周の船旅を通して国際交流を図っているNGO)に参加したいと、突如言ってきた。何か自身で思うことがあったのかも。でも、南米のチリで発作を起こし、火傷を負った。息子を連れ帰るため、一人で2日かけて聞いたこともない南米チリのバルパライソへ。何とか帰りの飛行機に乗ったものの、乗り換えのリマの空港でまた発作が。乗せられない、いや手術がある、乗せてくれ、降りろの応酬。もう怖いものはなくなった。その後、54歳でがんになり、6か月の入院生活。その間に義母の介護も5年にわたった。60歳で息子を失い、何もかもやる気がなくなり、しばらくして退職。何年か経って、ようやく自分のやりたいことをしようと思えるようになり、それで今の芸能活動へ(笑)。
Q これからは?
当時は思わなかったが、今になると俳句を続けてきて本当によかった。ダンスも旅行もいろいろしたいことはあるが、あとは残された時間の問題。そういう意味で、毎日が貴重で日々が有難い。今日一日過ごせることを感謝とともに送りたい、そんな気持ちが強くなっている。
★息子の病気がなければ、出会えなかったであろう人たちに感謝をする浜田さん。大変な生保業界の仕事も、息抜きでもあったというそのパワーは、もっとつらい人がいる、それを思えば何でもできるし、感謝しないと罰があたるという思いがあったから。生きた言葉、経験で得た言葉はシンプルで強く心に届いた。(木戸敦子)