上村 シマ 様(新潟県・新潟市)

 上村 シマ 様(新潟県・新潟市)
しまさん
『生きた証しに』『生きた証しにⅡ』
 2013年11月に句集『生きた証しに』、2015年2月に句集『生きた証しにⅡ』を発行された現役の美容室オーナー、上村シマさんにお話をおききしました。
Q 美容師になりたかったのですか?
美容師というより、職業婦人になりたかった。自分が働いたお金でご飯を食べたかったから。出身は昔は梨、今は葡萄づくりが盛んな西蒲原郡中之口村の農家で1男5女の2番目。父親には特に反対されたが、高校を卒業して美容専門学校へ。その後は、住み込みで働いたが、人の倍は努力したから4年もすると一通りのことはできるようになった。衣食住の保証はあるが、給料はないに等しかったこともあり、父に「店を出したい」と嘆願した。たまたま父の知り合いが、この店の場所が売りに出ていると紹介してくれ、23歳で店を出した。
何もわからないのにね。自分の名前をとって「シマ美容室」にしようと思ったが、知人がお参りにつれていってくれ、そこの先生が「ホーマー美容室」にしなさいと。「どういう意味ですか?」と尋ねても「そんなことを知る必要はない」と怒られ、いまだにわからないまま(笑)。
 
Q 開店後はいかがでしたか?
お客さまは誰もいなくて、ものすごくみじめな開店だった。専門学校の同級生がオープンした店に会いに行くと、母校近くの自宅で開店し、近所の人や同級生らが多く来店して忙しくてご飯が食べられないほど。私はお金がなくて、一食しか食べられないのに。半年はただ待つだけ。少しずつお客さんが来てくださり、あとは必死に働いた。
その後、24歳で結婚し、子どもができたり家を建てたりと、どんどん忙しくなったが、あの暇な日を思えば、借金もあったし忙しいなんて言っていられない。銀行にお金を返しに行く際には、お札にアイロンかけて持っていった。「お金を貸してくれてありがとうございます」という気持ちもあるが、同じお札なら、きれいな方が気持ちいいじゃない。開店当初から現在まで、お客さまには新札しか返したことがない。お金に対する敬意と、お客さまに対する「ありがとう」の気持ちを新札に込めている。
 
Q その後は順風満帆で?
ところが30代であまりの忙しさに店で倒れた。嘔吐や食欲不振、脱力、筋肉の痙攣などが起こる病気で、何をしてもだめ、死ぬのを待つような状態だった。父の「畳の上で死なせてあげたいから」の言葉で実家に帰ると、田舎の町医者が「おれが治してやるっけ、こんなたくさんの薬はみんな捨てよて」と、たった薬一粒を置いて、その後は「今日はどうら?」と毎日顔を出してくれた。
少しずつ回復して、あとはまた、がむしゃらに働いて2店舗目を出した。今でこそ家族だけで住んでいるが、住み込みの社員と24時間ずっと一緒に暮らしてきたから、ごたごたは日常茶飯事。あり過ぎて何を話していいかわからない(笑)。あるとき「こんな切ない思いをするなら辞めたい」と妹にもらすと、妹は「母親の働く姿を思い出だすと、どんな苦労もできる」と言い、頭を殴られた気がした。旅行に連れて行くと「畑にいるのがいっち好きなのに、なんでこんげとこ連れてくんだ」と怒っていた母。母の子なのに、なんで辞めたいだなんてバカなことを言ったのだろうと、それからは一切言わなくなった。
 
 
Q これからは?
第一句集は、難病と告げられた夫の看病をしているうちに私も体調を崩し、夫より先に逝くのではないか、ならば生きた証しを残したい、と思ったから。俳句仲間が、選句を手伝うから…と背中を押してくれたこともありがたく、感謝している。
一番大切なものは命と信用。夫亡きあとは、若い子たちに信用と技術をつけ、一人前の美容師として幸せにすることが私の生きがい。そのためには生涯現役でいたい。でも、今店長を任せているお嫁さんは大変かなあ(笑)。
 
 
天職と思ひ髪結ふ去年今年
草餅を焼く母さんの香ばしき
妻の座は今日でおしまひ梅雨の葬
迷はずに旅は吉野のさくらかな
一筋に髪結ひに生き梅真白
 
生きた証しに
HP2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
▲華やかなシマさんらしくバラの花があしらわれた装丁
 
★背筋がシャンとして、無駄な肉も動きもなく颯爽としているシマさん。今は2つの店に顔を出しながら、お客さんや社員の話を聞けば、ハサミも握り、店長であるお嫁さんと息子さん家族と一緒に暮らし皆を応援している。「人生七十古稀稀なり」だが、77歳でこういう生き方をしている方はどんなに稀か。「木戸さん、大変な時代なんさ~」と嘆いているようで、決して嘆いてなんかいないことがわかる。   (木戸敦子)