佐々木英子 様(神奈川県・相模原市)

sasaki eiko
▲白髪(はくはつ)も実にお似合いの佐々木英子さま

毎月お手伝いしている俳句の結社誌「かまつか」の副主宰であり、昨年8月に句集『楕円銀河』を上梓した佐々木英子さまにお話をお聞きしました。

Q 俳句との出会いから
昭和29年、結核で入院した慈恵第三病院でのこと。ある日、男性患者が「俳句の先生が来られるのでご一緒にいかがですか?」と勧誘に来られ、「遠慮します」と辞退したが、翌月には同室の女性と句会に顔を出していた。当時の入院といえば大体が結核か肺病。その男性患者は「かまつか」のメンバーで、立川病院に入院していた同じ「かまつか」同人の成田凡十先生がわざわざ教えに来ておられたのだ。凡十先生の魅力と「俳句はおおらかな書き方でいいんだよ」という言葉に後押しされ、月1回の病室句会を心待ちにするように。

Q 以来、ずっと俳句を?
退院後は、復職、結婚、退職、子育てと忙しい日々。10年程は休みがちであったが、メンバー同士のつながりがあったこと、初代主宰・金子麒麟草先生が「辞めるのはいつでも辞められる、できるときに出しなさい」と言ってくださったことで、細々と続けることができた。銀座の松屋デパートに復職してからは、文芸部をつくり、重役の方も引き込んで夕方5時半に閉店してから句会を開催。勤務中に一覧表をつくったり、そんなおおらかな時代だった(笑)。

Q お生まれは浅草とか?
薬局を営む父と、5年前98歳で亡くなった母、2人の姉と妹、そして私の6人家族。住まいは旅館がひしめく街のそばで、民生委員をしていた父がよく「お金はあとでいいから」と薬をあげていた姿を覚えている。昭和20年3月の東京大空襲で家を失い仙台の秋保に学童集団疎開、10月の父の死去には間に合わなかった。今も宝塚や演劇、歌舞伎が好きなのは、父が時々、国際劇場など芝居を見に連れていってくれた影響かと思っている。

Q まさに江戸っ子ですね
のどかだったが、私には田舎がない。笑われるかもしれないが、しじみはしじみ屋さんが、毎週決まった日に持ってくるものだと思っていた(笑)。だからなのか、職場結婚した盛岡出身の夫は、川があれば手づかみで魚をとるような人で、「何でもできてすごい!」と思っちゃった(笑)。穏やかで健康な人だったのに、去年亡くなった。私も平成23年に右の腎臓を切除したので「癌夫婦ね」と、笑い合っていたのに。

Q 今は俳句中心の生活ですか
神奈川県が設置し、日本赤十字社が指定管理者として運営している視覚障害者を支援する施設「神奈川県ライトセンター」で録音ボランティアをしていたことがきっかけで、俳句クラブの活動を手伝い始めて20年余。200回記念には普通標記とその点訳とが一冊になった第三回合同句集『花桐』を発行。現在、視覚障がい者は20人、晴眼者は10人だが、会場の定員が30人なので希望者には待ってもらっている。
視障者の大半は中途視障者で、各人各様見え方が違う。一人ひとりが厳しい過去をお持ちで、いくつもの目の病気を抱えている。そういう意味で結束がかたいし、月1回の句会といっても、月毎の担当者に俳句を送って、パソコンで打って、句稿の音訳・点訳・テープダビング、発送…と裏方業務も多種多様。そこは「ねぇ、やらない?」と点訳部会員や録音部会員にも声をかけて、協力者を増やしているの。

Q これからは?
自分の俳句は、締切りがあるから何とかひねり出している状態。今回の句集も、読み返してみると、こんな俳句出さなきゃよかった! とか(笑)。でも、視障者の皆さんの熱意はすごい。テープが届くと「あの句はここがいけなかったんですね」と、毎回すぐに電話がくる。あの熱意に動かされているし、まだまだやりたいこともある。だから病気なんてしていられないんです。

句集『楕円銀河』より
 
文科理科わたしは夢科初詣
行く秋を覗く旅なり河童淵
天命や冷えゆく母の掌月へ組む
寒オリオン腎臓一つ失うて
手鏡を揺らし梅雨蝶遊ばせる
麦秋や転んで起きて逢ひたくて

 

HP215
▲第二句集『楕円銀河』  各章のタイトルには隅田川にかかる橋「白」「言問」「吾妻」「駒形」の名前を冠した

★生粋の江戸っ子だけあって、しなやかで気っ風がいい。ご自身は「要するにおせっかいなのよ」とおっしゃるが、自然とみんなをリードする立場に祭り上げられる方だと感じる。周りを巻き込む力と求心力、何よりきりりとした生き方と。句集の跋文を書かれた二人の女性の文中には「遥かかなたを歩いている方」「何時も仰ぎ見る方」とあり、慕う人が多いのもうなずける。後ろ姿で魅きつけるのだ。      (木戸敦子)