三木 星音子 様(千葉県・我孫子市)

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▲とても90歳とは思えないご活躍ぶり

8月5日(金)、本年2月に句集『白鳥』を上梓された
三木星音子さんにお話をお聞きしました。

 【Qお歳をお聞きして驚きました
今年の2月で90歳になった。去年白内障の手術をしたが、今のところ杖のお世話になることもなく出歩いている。もっぱら女房の詩吟や書道の送り迎えだけど、近くなら車の運転もしている。私は俳句専門。今は月に9つの句会に出ているから、平均すると週に2回。明日は千葉句会で明後日は吟行会。この暑いのにね(笑)。

【Q】 大丈夫なのですか?
平気だよ。今は俳句が仕事だと思っているから。健康の秘訣? 運動も散歩も何もしない。おまけに、句集にも「終戦日胡瓜嫌いを通しけり」という句があるが、昔から野菜嫌いで一切食べず、今は青汁だけ(笑)。まぁ好きなように生きてきたから長生きなのでしょう。月曜日は極力休肝日にするようにしているが、今でも毎日飲むよ。といってもビール1缶だけどね、それも第3のビール(笑)。

【Q】 俳句専門とのことですが
家にいるときは朝食後は新聞を読んで、あとはお昼まで机に向かっている。もちろん俳句もつくるが、他の人の句を書き取りしていることが多い。今は俳句手帖の秋の部を書いているが気に入らない句は書かない(笑)。文字を書いていると頭が活性化するの。書くことで気づくことがあるし、知らないことは辞書で調べる。へぇ~こんな作り方があるのか! と新しい発見をしたりね。俳句以外は、時代小説とテレビを見るくらい。でもドラマは大嫌い。これ以上、人生で泣いたり笑ったりはいらないよ。小説は読みだしたら止まらないから、12時で止めて寝ることにしている。夜は夜で忙しい(笑)。
 

【Q】 俳句との出会いは?
生まれは京都の福知山。中学の先生が劇作家の岸田國士の甥で、文学青年だった。その影響で俳句に出会い、18歳で塚原夜潮主宰の『渦潮』に初投句、翌年、岡﨑水都の句会に参加し、同年19歳で俳句同人誌『星』を発行し代表となった。その間、17歳から海軍の役所に勤め始め、土地の買い付け等をしていたが、ある日「来月から軍人になれ」と言われ、普通の勤務から軍人になった。そういう時代。その反動からか、何かに憑かれたように俳句に熱中し、月に一度は大阪に上京し句会に出ていた。当時住んでいた呉と大阪間は片道約10時間もかかったのに。
ところが、24歳の時に『星』を終刊した。もう記憶にないが、生意気だとかなんとか、よほど腹に据えかねることを言われたんだろうね。それから50年は俳句を中断し、仕事人間として生きてきた。

【Q】 50年のブランクですか
今にすれば悔やまれるが、仕事を辞めたら始めようとは思っていたので、平成12年、72歳の時に再開した。若くして始めた俳句だが、花や鳥の名前もほとんど知らず基礎がない。角川の通信講座で一から先生の指導を受けることにした。退職後は、故郷の福知山に戻ったが、女房が倒れ、心配した子どもたちが近くに住んだ方がいいということで、それまで一度も来たことのない縁もゆかりもないこの土地に住み着き、今年で17年になる。

【Q】 この土地でこれからも俳句中心の生活ですね
そうだね。句会はそれぞれに性質が違っておもしろい。だから行っているといっても過言ではない。明後日は吟行だが、吟行はいつも成績が悪い。そこの景にとらわれて、思考やイメージが飛躍しないから。でも頭はフル回転させなきゃいけないし、それが刺激になり勉強になる。最終目標なんて大層なものはないが「百鳥」の師である大串先生に採ってもらう句を1句から2句にしたいとか、そんなこと。先生の句は不思議なんだよね。特殊なことは何も言ってないのになんとなく惹かれる、そんな句が作れたらいい。

▲折々を遊ぶ手賀沼の友 白鳥をタイトルに
▲折々を遊ぶ手賀沼の友 白鳥をタイトルに

 

「白鳥」より5句
星空を流れきし水滝となる
保育器に育つ命やさくらんぼ
団子屋の列に加はるパナマ帽
暑気払ひ高高と詩を吟じけり
白鳥を流離の友と思ひけり

 

 

★句集には「石窯ピザ」や「ジーパン」「路上ライブ」といった単語も楽し気に踊り、三木さんの古びない精神性を感じる。幼くして、父のいない、お母様との生活は決して楽なものではなかったと思うが、ご苦労を微塵も感じさせずに淡々と飄々と生きていらっしゃる。曽孫4人の名前も「ややこしい名前なんだよ」と言いながらスラスラと口をつき、昔交流のあった俳人の名前もぽんぽんと出てくる。命は食べ物という物質だけで育まれるのではなく、情熱という目には見えないものが支えていることを三木さんとお会いして改めて感じた。(木戸敦子)