井上 進 様(千葉県・船橋市)

一昨年と昨年、半年間の間に『「生きる」と言うこと』と『記憶の記録』という2冊の大作のエッセイ集を出版された井上進さまが5月24日に来社され、お話をうかがいました。

▲「子どもが生まれたみたい、文字通り抱きしめたい本となった」と笑う井上さん

Q 2冊を出版しようと思った経緯から
昔から書くことは好きで、作文の成績はよかった。日記に書いたり、友だちのメルマガに投稿したりしていたが、読者の反応が少ないことに物足りなさを感じたことと、やはり電子より紙の文字を読んでほしい、という思いが募っていった。また、現役の55歳のとき自叙伝を書き始めたが阪神淡路大震災が起き、当時勤務していたメルセデス・ベンツで救援活動の一端を担っていたこともあり中断し、そのままになっていた。

Q その続きをということ?
言い古された言葉だが、自分の「生きてきた証」を何らかの形で残したい、「人生は一冊の本」という思いを持っていた。体験した様々なことを、難しく考えずに表現すればいい、表現することが生きることにつながると思った。何よりも、記録に残したい3つの大きな出来事があった。それは、生死を分けた広島での被爆体験、地下鉄サリン事件、心筋梗塞。
3歳から東京の親元を離れ、尾道の祖父母のもとで暮らし、広島へ転校した小学校2年の時、爆心地から2.5㎞で被爆した。一瞬、ヘッドライトのような光を浴び、あとは意識を失った。幸運なことに防空壕に吹き飛ばされたため、今こうやって生きている。当時、一緒に勉強していた多くの人は亡くなった。
地下鉄サリン事件の日、事件の起きた1本あとの電車に乗っていた。何が起きているのかわからないまま別の電車で出勤すると、ホームや駅周辺には多くの悶え苦しんでいる人がおり、救急車が行き交っていた。
心筋梗塞の際には「あと30分手術が遅れていたら命はなかった」と言われ、この頃に日本尊厳死協会に入会した。

Q なぜ日本尊厳死協会に?
入院した際、治らないのに辛い治療をしたり、ただ生きているだけの姿を見た。回復の見込みがないなら、最後は自然に安らかにその時を迎えたいという、自分の意思を元気なうちに記しておくのがリビングウィル(生前意思)。2009年に入会し「尊厳死の宣言書」に署名した。不要な手術や胃ろう、家族への負担という不安から解放され、入会して気持ちが楽になった。葬式は一切不要、葬送は家族だけで散骨し、友人たちへの連絡は、差出人は妻の名前で「〇月〇日夫は永眠しました」と、あとは亡くなった日にちを入れ、三ヵ月後に投函すればいいことになっている。死を考えることで、それまでは元気に、前向きに生きていこうと思える。

Q 今の原動力は?
基本的には人が好き。だからつい世話役を引き受けてしまう。個人的なことでは、高校の同級生のウォーキング仲間20人弱を連れ、30年以上、奥入瀬、京都など60回全国を歩いた。下見から企画、連絡、実施後は旅行記を作って郵送した。最後は修了式も実施したが、当時の旅行記を読んでは「ここに連れて行ってもらった」「あんなことがあった」と皆が宝物だと言ってくれた。大学のクラス会も60年間幹事を務めた。
読書、旅、映画鑑賞、囲碁、俳句と多々ある趣味の中でもこの「歩く」ことが何より大きな力となった。

Q 四国八十八か所を歩かれたとか
ただ歩くのではなく42日間一歩一歩が心の修行だった。野宿したこともあれば、無料で泊めてくれたところもあった。でも歩き通せたのは自分一人の力ではなく、ものすごく優しいもてなしがあったから。あの時の苦労が後の様々な悩みから救ってくれた。また道中出会った、阪神淡路大震災で心に深い傷を負った人、自殺の場所を探しに来たという人、四国に来て剃髪した若い女性との話は、何にも代えられない教訓となり、以来毎日仏壇に「般若心経」を唱える様に。この時の得難い経験は、生きていく価値を教えてくれた。

▲原爆ドームと尾道の写真が自身の人生を語っているようという2冊のエッセイ集

Q これからは
この本をまとめたことにより、40年余り記した日記を徐々に処分している。でも日記は捨てても自分の人生は捨てません。これを境に、生き続けようというファイトが湧いた。この2冊を携えて、過去を振り返りつつ将来に向かって一日一日を淡々と有意義に過ごしていきたい。

★小学2年生の時の強烈な被爆体験。以来常に「生きるということ」を突き付けられての、井上さんの人生という旅路。「どう生きるかを考える時、品格と気品、優雅さを心がけ、常に感謝と凛とした勇気ある謙虚さを目標に精一杯暮らして行こうと思う」(エッセイより抜粋)。よく死ぬことは、よく生きること、まさにその具現者であった。