海原(かいげん)俳句会 代表 安西 篤様(東京都・新宿区)

 
海原俳句会
代表 安西 篤様(東京都・新宿区)

▲ 代表 安西篤様
 
3月2日、新宿の家庭クラブ会館で開催された「海原」の東京例会にお邪魔しました。
「海原」は昨年2月に他界した金子兜太氏の「海程」の後継誌として同年9月に創刊した俳誌で、兜太氏が提唱した理念「俳句形式への愛を基本とし、俳諧自由の精神に立つ」を継承しています。
事前に用意された92句の句稿を一覧した瞬間、おぉ、普通じゃない!とワクワクしながら、これもいいあれもいいとどんどんチェックがつき期待感が増します。さてどんな句会となるのでしょうか。披講に続き、高得点句から。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
▲「海原」通巻6号 3月号
入会/購読申込 千葉県市川市稲荷木2-14-9
武田伸一様
 
◎11点
一周忌ってまだ仮縫いのよう土筆          斗士
「仮縫い」が、金子先生の一周忌が済んでもまだ本気になれない、しっくりきていないという想いを表わしている/あっという間に一周忌がきて、本縫いとは程遠い仮縫いのような心情のまま、野には土筆がすくすくと育っている。そこに海原の伸びていく姿を重ねて読むとおもしろい。「仮縫い」という言葉で、先生を失い虚ろっている思いが表現されている/「仮縫い」が微妙に一周忌と土筆に両がかりになっていて、一句になったときに本物になっていない感じがよく出ている。読むほどに、抜群にうまいと思った/「仮縫い」という例えが、気が利いているがわかり過ぎて、まだまだだなーという感じ/一周忌って、の「って」が甘く感じられて採らなかった。「一周忌仮縫いのよう」で十分/「って」は甘いと思うが、幼子のように先生を慕っていた、それを土筆の幼さと「って」で、さらに強調したのでは。
◎10点
忘れたい障子の穴に蝶を貼る      葛子
具象のラインとイメージのラインが嫌味なく並んで溶け合って、いい空気を出している/蝶を貼るがおもしろい。障子の穴を忘れたいというのと、忘れたいことがあってそのために障子に蝶を貼るのと、読み手が勝手に想像力を働かされるところがいい/「忘れたい障子の穴」ではなく、「忘れたい」で切れると思う。だとしたら忘れたいが何を指示しているかイメージできず、そこが惜しい/「忘れたい」で切れる、蝶で忘れたいものを心情的に覆いたい気もあったのかもしれない/蝶じゃなくても成立するかなーと思っているうちに見過ごした/忘れたい障子の穴ってどれくらいのドラマなんだろうと興味を持った。障子への懐かしさも気持ちを刺激した。
◎9点
たんぽぽの絮毛のように出掛けます       鈴
みんなこういう自由さに憧れる。絮毛だと自由だという気分の方に流れるが、言葉としては「出掛けます」で引き締めている/たんぽぽの絮毛を擬人法的にとらえている/素直な感性で書かれているから誰も否定はできないが、それをよしとするかしないか。伊藤園新俳句大賞ジュニアの部では佳作に選ばれるでしょう(笑)/これはジュニアでは作れない大人の句。軽い生活感、日常感がいい。押しとどめようのない口語俳句のお手本のような句。
◎7点
暗闇は何故か小声に沈丁花         雅彦
「暗闇は何故か小声に」は本能的にあり、生々しい実感で共感できた。「明るいところで大きな声」の反対で、沈丁花の「沈」が効いてなかなかのセンス/明るいところと暗いところの光と闇、色とにおいと音をいい感覚で掴んでいる/こういう句は難しい。チェックはしたが言っていることは普通。沈丁花ではないもっといい季語があるのでは/「なぜか」が気になった。沈丁花と暗闇はつく/つく、つかない以前になぜそこまで言わなきゃならないのか、それを言わないのが俳句。
猫だって星を数える木の芽時      珠美
猫は時々哲学者みたいな顔をしてじーっと空を見あげている。星と木の芽時のファンタジックな取り合わせが素敵/作者自身が鬱っぽい気分で、抱っこした猫と一緒に星を見ている景を思い浮かべてしみじみした/木の芽時が合いそうで合わない季語。ものを思う季節というのはわかるが、ちょっと作り過ぎな気がしていただけなかった/木の芽時の猫は、星を数えるどころか猫の恋で静かに星を見ているような状態ではない/この猫は去勢されているから星を数えているのでは。そう考えるとなかなかいい句(笑)/「だって」が気になった。猫ですらというなら、猫側としては差別(笑)/作者は、ただ猫じゃだめだと独自性を出そうとして「猫だって」と強調している。
作者…ノーコメント(笑)。
児玉さん逝くきさらぎの草の妻              愛子
「草の妻」という言葉の使い方に驚いた。野草を愛し野草からも愛されていたという感じが伝わってくる/ご存知ないかもしれないが、作者は児玉さんの「漂うともちがうただよい草の妻」の句を踏まえて作っている/まさに児玉さんそのもの。追悼の想いが色濃く伝わってくる/追悼句に文句を言うのも申し訳ないが、追悼句とするにはもったいない。逝くとしないで「児玉悦子さんきさらぎの草の妻」と詠った方がいいのでは/今日この句会でこの句によって児玉さんに会えた。
 

▲編集長 堀之内長一様

 
◎6点
足音が儚いなんてマスクして      郁好
口語がうまく効いている。「足音が儚い」も鋭い感覚で、深刻な内容だがそれが「なんて」によって軽々としてくる/金子先生は「重たいことを軽く書く」と教えてくださった。重いか軽いか実際にはわからないし、誰がマスクして誰の足音が儚いのか今ひとつわかりにくいが、伝わってくるものがある/なんて、が難しいが、マスクしてそんなこと言っているというふうに読んだ/「マスクして」で説明したところが残念/都会に住んでいる人の孤独感、そういった微妙な心情が「足音が儚いなんて」のフレーズによって醸し出されている。
鬱という一つの漂泊花薊            雅彦
鬱を漂泊といった、これにまいった/類想類句あるように感じるが、はっきり言い切った句はあまりないかも。鬱の時代に漂泊感を感じるということに深い共感を覚えた。よく花薊をもってきた/「一つの」がくどい。「鬱という漂泊」の方がぐっとしまる/「鬱という漂泊」だと直接的すぎる。一つが効いている。様々な漂泊感のなかの一つとして鬱を持ってきた。花薊のさすらいの感じが、よく効いている。
春禽が啄んでゆく男の詩            由貴子
原稿か何か書き散らしたものが庭のところに落ちて、という実景が見えつつ、もう一つはこの男性の才能の一部が啄んでいかれると読めるおもしろい句/実景とは思わなかった。春禽が詩的で、うまく言えないが好き/句としてはできているが、当たり前の句。
冴え返る鳥たちの胸ひかるから              郁好
「鳥たちの胸ひかるから」の表現がとてもいい/感覚は好きだが、うまいというわけではなく普通/なぜ「光るから」と因果関係にしたのか。「冴え返る」と「鳥たちの胸ひかる」を並列にして「冴え返る鳥たちの胸ひかるかな」とすれば、取り合わせでもっと光ったのでは(笑)。
病名の五つ並んでふきのとう      宏允
ふきのとうがいい。病気だから辛いはずだが割と冷静に達観している感じと、寒い風の中で耐えている、そんなところもよく出ている/採り損なった。ただふきのとうだけであらゆることを想像させるうまい句/総合病院でいくつかの科を回って診てもらうことが多くなり、ふきのとうは実体感がある。ちょうど5文字で、連想をよぶ面白さもある。
 
▲発行人 武田伸一様

 
◎5点
厳父なり犬と揃いの赤セーター              収
厳父ときて、犬と揃いの赤セーター、ここでにやりとさせる。いかにもの俳諧のおもしろさ。難解なところが全くなくていい/厳父が赤いセーターを着ていること自体、厳父の別な一面をのぞかせている。しかも犬と同じ赤いセーター。しかつめらしい言い方で出ながら、句全体として諧謔をもたらしているレトリックのうまさ。
春星ふたつ切り絵ひらけば野外劇   友子
春星ふたつが、切り絵の世界に開かれていてしかも野外劇。豊かな世界でいい/子どもの開き絵のような感じが楽しい。春星ふたつ、そして切り絵ひらけばの一連の流れが、童話的世界に誘い、これから何か始まりそうな野外劇の楽しさにもつながっていく。
小鹿野あたりまんさくちりちり地に還る            伸一
この前、吟行した小鹿野「あたり」とわざと言って、まんさくをひらがなにした効果が柔らかく出ていて、景が目に浮かんできた。
びゅんと巻尺早春の雲に当てみる          久子
「当ててみる」の間違い? 春のうきうきした感じと、早春の雲に巻尺をしかもびゅんと当てるというオノマトペの溌溂とした感じがいい/「当ててみる」じゃつまらない。「当てみる」に独自性が感じられて、巻き尺が空に突っ込んだ感じがする。
◎4点
看りて帰り雪のひとひらは私   黒岡洋子
草青むアルパカと同じ背の少女              愛子
兜太亡く春大根ぶつこ抜いた穴              正名
足長蜂出入り自由の蔵窓に         長一
寒夕焼わが晩年を立ちつくす      篤
独活を待っている孤独のページかな       大髙洋子
梅うふふ父描きおる母の顔         収
春の雷怒っているかと子が尋ね              鈴
終活の進まぬものに古雛            佐稔
 
▲毎回60名近くが参加される「海原俳句会」

 
 
★司会の宮崎様のうまさも手伝って、大人数でありながらその句を採った弁と採らざる弁が活発に展開されていく。字面だけで見ると侃々諤々のようだが、実に闊達でけれんみのない物言いは気持ちいいほど。まぎれもなく、師の教えが息づいている。この自由にものが言える空気が、たんぽぽの絮毛のように広がり根を張り葉を広げ育っていくことを、師も願っているに違いない。(木戸敦子)