銀漢俳句会 本部句会
主宰 伊藤 伊那男 様(東京都・千代田区)
7月14日(土)、神保町の「ひまわり館」で行われた「銀漢本部句会」にお邪魔しました。地下鉄から地上に出ると、アスファルトから陽炎が…暑い、汗が噴き出してくる。通常は60名程参加するところ暑さのために欠席の方が多く、本日は50名の参加者で句会スタートです!
今日の兼題「蟬」と「裸」を含む、当季雑詠計5句出句の5句選。清記用紙が回覧され、各人これはいいな、と思う句を自身のノートに書きつけ清記用紙を右隣の方に回す。皆さん手慣れたもので、選句が終わる頃には一通り選も終わり、用紙を提出して休憩に入る。
海村さんと次郎さんの披講後は、特別選者、主宰の選へと続く。主宰から今日の兼題「蟬」と「裸」の解説がある。
一つ目の「裸」という兼題だが、気になるのは、夏でも春でもいつでもいいという裸が多かったこと。季語には「本意」がある。「暑い」ことが前提にあって裸が出てくる。赤子が裸だとか、風呂から出たら裸だというのは、冬だって風呂から出たら裸だし、入る時も裸。つまり季節感がある裸かどうかが大事。もう一点は、人の裸じゃないと困るわけで、ミケランジェロの裸は困る。キューピーや裸婦像の句もあったが、これも一年中裸であり季語にはならない。写真の中の裸も微妙だと思っている。要は暑い、という雰囲気が出た裸を句として作る、ということを覚えていただきたい。
高浜虚子に
「裸子をひつさげ歩く温泉の廊下」
という、山梨の下部温泉で詠まれた句があるが、このあたりから季節のわからない裸が出てきたように感じる。裸の子ということであれば、鷹羽狩行に
「天瓜粉しんじつ吾子は無一物」
という句があるが、まさにこれが何もつけていない裸の状態。ここに夏の季語、天瓜粉をもってきたからすごい句になっている。ただ赤ん坊=裸ではないということ。
続いて「蟬」。松尾芭蕉が奥の細道の山寺で作った有名な句に
「閑さや岩にしみ入る蟬の声」
があるが、ここに至るまでに芭蕉は何度も推敲している。
「さびしさや岩にしみ込む蟬の声」、その前が「淋しさの岩にしみ込むせみの声」、その前が「山寺や石にしみつく蟬の声」。こういう変遷を経て、この句はできてきている。この蟬は何蟬だろうかという斎藤茂吉と小宮豊隆の白熱した蟬論争も有名。
芭蕉は生まれ故郷、伊賀上野の藤堂家の次の当主である2歳年上の良忠の小姓として仕えた。勉強相手であり、遊び相手でもあったこの良忠が若くして逝去。芭蕉とともに俳句を学んでいたこの良忠の俳号が蟬吟であり、この句の背景には蟬吟を偲ぶ心が出ているのではないか、そんなふうに感じる。
あれから20年余、良忠が亡くなった春、芭蕉45歳の時に藤堂家に招かれて詠んだのが、かの
「さまざまのこと思ひ出す桜かな」
という句。
この句自体、面白くもなんともないが、その歴史があるからすごい。万感の思いがこもっている。芭蕉にとって、蟬吟の影響はすごく大きかったと思う。
続いて、今日の主宰選の講評です。
山寺の磴千段に万の蟬 伊藤庄平
まさにその芭蕉が尋ねた、山形県の山寺。千段というのはたくさんという意味。さらにその千段を上がっていくと万の蟬がいたということ。数字を二つ重ねて作った、技のある句。
子の手よりくぐもる蟬の羽音かな 朽木 直
緩くつかまなければ蟬は死んでしまう。その指の間から羽音が漏れてきた。細かく見ている。
蟬時雨羽黒の磴はまだなかば 三代川次郎
これも奥の細道シリーズ。羽黒山は一六四〇段。その磴を下から登っていくわけだが、蟬時雨の下でようやく半分まで来たな、という実感がよく出ている
人の輪の真ん中で切る西瓜かな 多田悦子
人がぐるっと円形になり、その真ん中に円形の西瓜がある。二重丸になっているわけで、そこのところをうまく詠んでいる。
滲みでてくるやうに蟬鳴きそむる 辻 隆夫
初蟬はまさにこんな様子。そのじわじわっとくる感じを捉えている。
大木の母性に抱かれ蟬の鳴く 中村孝哲
名乗りを聞いたら、やっぱり孝哲さん、小説的な手法を感じる。「母性に抱かれ蟬の鳴く」は、大木に頼る蟬のつきそうな木ということ。その辺の感じが独自の描き方で表現されている。
浦風の机上をゆけり夏期講座 宇志やまと
私だけが採った句。林間学校みたいなところで窓を開け放って風が吹き抜けている、いかにも夏期講座の様子がよく出ている。
蟬捕りや電柱のまだ木の時代 畔柳海村
今はコンクリートの大きい電柱。確かに懐かしい風景で、私たちの小さかったときの感じが出ているおもしろい句。
城山に火攻めのごとく油蟬 杉阪大和
「火攻めのごとく」で、憑かれたような鳴き方が出ている。
まだ風に馴染めぬ腕更衣 堀内清瀬
「馴染めぬ腕」がいい。更衣はしてみたものの、どこかスースーするという感じがでている。
打水を多めに通夜の家の前 朽木 直
これも私だけ採ってるね。うまい句。これから通夜客がくる、そのために清める、涼しくする、という二つの意味。それを多めにという言葉で表している。打水の句としてとてもいい。
仮縫を走るミシンや巴里祭 宇志やまと
まぁ、よくこんなの思いつくね(笑)。「仮縫を走るミシンや」なんてなかなか出てこない。
背番号無き子等もゐて蟬時雨 小山蓮子
今日は蓮子さんの句、3つもいただいたんだね。これは今日最高の10点句、なかなかレギュラーに入れない子もいる、ということをうまく詠んでいる。
効き目ある医師の笑顔や青葉風 小山蓮子
青葉風で決まるかどうか、というところがあるが、上のフレーズがうまい。
本堂を疾風のやうに跣の子 森羽久衣
村の小さなお寺かどこかで、裸足の子どもたちがはしゃぎまわっている。開けっ放しになっているところをそのまま突っ切って向こう側に出た、そんな風景だと思う。力のあるいい句。
掛けてより肩に力のサングラス 杉阪大和
いつも肩に力が入っているけど、さらに力が入ったという大和さん(笑)。
初蟬のまだ風の音にまぎれつつ 大溝妙子
しみじみした句。さっきの滲み出るという感覚と同じようなところを詠んでいる。「あれ、風の音? でも蟬なんだ」という微妙な始まり具合を、地味だが丁寧にものを見て詠んでいる。
百円分動く自動車蟬時雨 小山蓮子
遊園地の子どもが乗る車。百円分というところが面白い。
鉢物に水やつてゐる裸かな 小泉良子
味があるよね。これはまさに夏の暑いときの裸。どこかの下町かもしれない。暑い盛りなんでしょう、裸でもいいや、という感じが出ているうまい句。
❖ 主宰作品
裸の父女系家族に厭はるる
空蟬のなほ掌に爪立つる
有難く受く山寺の蟬の尿
「銀漢」創刊の言葉より(2011)
俳句は短いが万葉集以来、千数百年にわたり先人が心血を注いで築きあげた詩歌の歴史の結晶である。その途方もない歴史を思えば、少しばかりの才能や、少しばかりの努力で俳句が成就すると思うのは実におこがましいことだと気づくはずだ。真摯に先達の努力に学び研鑽する、自分を生かしてくれる天然自然に感謝することが出発点である。若者には無垢と野心が、熟練者には蓄積された人生経験と知恵がある。各々の立場で、只今の自分が持っているすべてを絞り出す覚悟で銀漢俳句会に臨んでいただきたい。私もその覚悟である。充実した生活を送るため、幸せになるため共に学びたい。
★改めてこの言葉を読み、句会に向かう皆さんの真摯な心構えの理由がわかった気がした。句会後の懇親会でも主宰は「参加している方は、介護をはじめ家庭の様々なことがありながら、万難を排してこの句会に参加している。だからこそ楽しかった! といってまた明日から頑張れる、そんな句会にしたいし、それが幹事の仕事」と仰っていた。銀漢亭の店主と主宰という、二足の草鞋を履いているが、第一線の企業人だったこともあり、会の運営もスムースで会員もどんどん増えている。「自然に感謝し、幸せになるために共に学ぶ」、本質を突いた、いい句会だった。(木戸敦子)
句集『然々と』より
或るときの家族の数の福寿草
すれちがふ人はもう過去町師走
生家跡覗いてみたる盆帰省
秋風を聞きたる橋の半ばかな
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