迫 伊都子 様(大阪府・摂津市)

 

▲「日々のなかでぴっと光ったことを歌にしているだけ」と話す迫さん

 

昨年11月に三冊目の『歌集 冬暁』を出版された迫様に、ご自宅併設のギャラリーでお話をお聞きしました。

 

Q 素敵なギャラリーですね

ここを始めたのは2011年夏。上の子は子どもの頃から絵を描くことが好きで、今は生業にしている。同様に母もアマチュアながら絵を描く人で、孫を応援していたが彼が大学に入った時に亡くなった。親馬鹿だが、母の遺作と息子の二人展をしたくて、茨木駅前のギャラリーを借りて催した。いろんな方が絵を見てくれて「同じ学校だったのね」とか、多くの出会いがすごく楽しいなぁと思った。それがきっかけ。自分では描けないのにね。

 

Q 描けなくても歌を詠めます!

歌はね、恥ずかしいの、歌集を出したことも。そこが矛盾している(笑)。私の歌は日記のようなもの、日記を公開するのは恥ずかしいでしょ。だから常に揺らぎつつ、でも30年くらい詠み続けている。父親が61歳で亡くなっているので、もう何があってもいい年齢。いずれ終点はくるという思いでいる。

 

Q 30年前は30代ですね

少女の頃から詩を書いて投稿したりすることが好きだった。子育て中、短歌がライトバースとして流行り始め、雑誌に投稿したら採ってくれるので勘違いしちゃった(笑)。自分のペースでできるので、40代半ばくらいまで10年以上投稿歌人を続けていた。歌会も全く出ていなかったが、2004年に「未来」に入会し、投稿したものと未来の作品を併せて2011年に『歌集 雨月食堂』を出した。

 

Q 今回の『歌集 冬暁』は?

自分の中で絶対に残そう、という歌に丸をして千首以上をようやく六百首ほどに削った。それが一番大変で、選んだ歌を打ち込むのは振り返りでもあり、想いが昇華されていく時間だった。『雨月食堂』は夫と暮らした日々を永久に保存したくて編んだもの、そして今回の『冬暁』はほとんどが挽歌。夫が亡くなって10年余、最初の1年は生き死にを考えたら歌なんて何の意味があるの? と歌から離れた。でも歌は気持ちを吐露する手段でもあり、「自分にとって大切なものを詠いなさい」という先生の教えを支えに、少しずつ再開することができた。そうして毎月10首以上の歌がたまり続け、どうしたものかと逡巡していた。

 

▲『歌集 冬暁』見た瞬間、歌集の表紙にと直感した絵

 

Q 何かきっかけが?

毎年、展示会をしてくださっている水彩画家の小林冬道さんという方がいらして、ちょうど搬入の日の朝に描いたという絵を見た瞬間「私のための絵だ!」と思ったくらい、気に入った。それが冬暁という絵で、歌集の題名に。すぐに「今日の日も会いたき人がいることを冬暁に向かいて告げぬ」という歌が生まれた。不思議な必然が背中を押してくれた。

読んですぐにハガキや手紙をくれた人たちもいて、それを読んだらこちらが泣けた。書に歌を書いてくださる方や、歌をやめようと思っていたが続けることにした、という方も。読んでよかったと思う方が一人でもいたら逆に励まされるし、自分の歌にも愛着がわいてくる。

 

Q これからは?

ギャラリーも、こんなことをしたいという構想が広がって面白くなってきたので、しばらくは頑張ろうと思う。次は自分の好きな絵を集めて、東京か大阪でアートフェアを開いて、その次はアジアでとか…妄想ですけどね(笑)。自分の好きな絵を「いいなぁ」って言ってくださるのがうれしい。お披露目に呼んでいただき、インテリアに凝った素敵な空間に、その絵がはまっているのを目にするのは至福の時。あと歌はずっと共にいるもの。歌会で、誰にも認められない歌を出しても、また行きたくなる不思議な魅力があるの(笑)。

 

▲ひと月10日間開催の「ART GALLERY 5」

 

 

『歌集 冬暁』より

大阪に救われているこころあり天神橋筋友と歩けば

久方の光降る中過ごししは君や子らとの翠の時間

灯台を二つ眺めた今日の日は記憶の海に浮かぶのだろう

 

「悲しい歌が多かったので、どんな方なのだろうと思ったら全然悲しい方じゃなくて…」と失礼にも申し上げると、「あっはっは!そうですよ。何の苦労もなさそう、と言われるの。痩せこけてたらいいのに、ふっくらしているから」とチャーミングに笑う。ご夫婦で子どもの追っかけをしていたという子煩悩の迫さん。確かに存在した折々の幸せの時を刻み、永遠にとどめた二冊の歌集。子煩悩は未来をつくり、歴史は市井の人がつくる。家族、人とのつながり、つまりは愛が未来をつくると素直に感じた。(木戸敦子)